私が陸軍特別幹部候補生であった頃の体験記

私は旧制中学五年生の二学期に陸軍乙種特別幹部候補生を志願し、昭和十九年九月に出発、基隆から浅間丸に乗船。 その頃はもう既に米軍の潜水艦が東支那海に出没し、船内には対潜水艦の深水魚雷が装備され、皆が救命具を終日身に着け、万一沈没の際、寒気と鱶の襲来に備え、ポケットには何時でも小瓶のウイスキーと3メートル長さの赤襷を入れていました。 幾たびか警報は鳴りましたが、幸い三日後無事門司に入港しました。 浅間丸は当時最も大きい、一万六千噸級の商船でしたが、私たちを乗せた直後、南方基地に向かっての航海中、バーシイ海峡で米軍の潜水艦に撃沈されました。

門司に上陸後、何時,何処に到着という手紙は書けないので、内容の無い葉書を家に送りました。それから直ぐ汽車に乗り換え、岐阜へと向かいました。 初めての関門海底トンネル、継ぎ目の無いレールは本当に静かでした。 台湾は砂糖の産地なので、その頃甘い物は余計有りましたが、内地では砂糖が欠乏、車内で持って行ったお菓子を食べていたら、傍にいた若い女の子が羨ましそうに見ていたので、飴玉を二つ程分けてやったら遠慮なく、有り難うと言って受け取ってくれました。 汽車の旅、二日掛かりで鵜沼に到着、岐阜陸軍航空整備学校に入学しました。

台湾にいた頃食べ物は不自由していませんでしたので、入校した数日はおかずが悪いので全然食欲がありませんでした。 然し十九、二十歳の若者、時が経つにつれ、何でも食べる様になりましたが、食粮不足で三食とも同じ高粱飯(玄米に高粱を混ぜて炊いた御飯)、その上、量は丼に七分目、おかずは沢庵漬け二切れ、お汁はこれまた大根二切れ入っただけの醤油汁。 こぅいう食事状態を四ヶ月程続けている内に、私は国を出る時60キロ有った体重が 52キロに減り、学校では営養失調で死者が続出、十九、二十歳の若者が女の子を見ても、何とも感じないインポテンツ状態となりました。

私は一命は取り留めましたが、左の膝に怪我を負い、それが治らず、どんどんと腐っていくのです。 幸い上の兄(五人兄弟で私は末っ子、四番目の兄)が岐阜の薬専を出て、大阪の武田製薬(旧称・武田長兵衛)に勤めており、学校の軍医に知り合いがいましたのでサイアジンと言う、当時最も優秀な消炎剤の注射液を二本渡し、注射して貰ったお蔭で、左足は切らずに済みました。

「伊吹おろし」の吹きまくる零下五度の寒さの中で冬季の軍服に、襦袢が一枚、寝具は軍用毛布四枚、起床後三分で内部整理を終え、風の日、雪の日を問はず、上半身真裸で外へ出て、乾布摩擦、遅れると飛行場を駆け足で一週、そして作業中にスパナーでも落とそうものなら、これまた飛行場を一週。営養不良の上に、あの寒さ、それに加えての厳しい訓練、岐阜での半年は一生を通じて忘れる事がありません。

元来岐阜陸軍航空整備学校は一年半で卒業の予定でしたが戦局の悪化で、半年後の昭和二十年三月には茨城県西筑波(下妻と下舘の中間)にある62戦隊(陸軍第九六部隊)に配属されました。部隊の番号を今でも覚えているのは「苦労苦労で丸破れ」からです。

62戦隊には 四式重爆撃機 「キの67」(飛龍)、100式重爆撃機 「キの49」(呑龍)、それに97式重爆撃機 「キの21 が各十数機程、配備されていました。

四式重爆撃機は魚形水雷を搭載し、急降下して敵艦に水雷を発射する万年筆型の胴体で、キーンと言う獨特な爆音を発し、当時としては最優秀の重爆撃機でした。 私はその机上機関士に任命されました。

62戦隊は元々フイリッピンのレイテに進駐していましたが、飛行機の大部分を米軍に撃破されたので、一部の人員が本土に帰還して、飛行機を配領し、再出発する予定でしたが、それだけの飛行機もなく、空襲も激しくなりましたので本土防衛と任務が変更となり、毎日の日課は飛行士の養成、主に離、着陸の練習でした。

私は見習い機上機関士として、最初の一月は機上機関士付き添いのもとで脚の上げ下げ、フラップの操作、プロペラのピッチとエンジン温度の調節を習い、離陸の際には、「脚上げ完了」、「フラップ収納完了」、飛行中は「気筒温度正常」、「油圧、潤滑油温度正常」、着陸の前には、「脚下げ完了」、「フラップ15度」、「フラップ30度」と、大きな声で操縦士に伝達しなければなりまでした。

そして地上では通常の整備、点検等色々な訓練を受けましたが、一ヶ月後には単独で搭乗、機上機関士としてのすべての作業を任されました。今振り返ってみると本当に無鉄砲な事です。

半世紀を経た今でも、あのキの67は優秀な飛行機であったと思います。

機内への出入りは胴体中央下にある、二段ほど階段が付いた扉からです。正常の搭乗員は操縦士が二人、機上機関士、無線、航法、砲手等各一人を含めての六人ですが、前方、後方、そして左右両側に13mmの機関銃が4挺と、上方に20mmの機関砲が一座有りますので、砲手は時によっては人員が増えます。

エンジンは加給器(スーパーチャージャ)が付いていて、それを作動するとエンジンの馬力を増す事が出来ます。最高速度は時速530Km、今のリニアーモーターカー並ですが、私たちは時速470480Kmで飛んでいました。

朝始動するのに、外の飛行機は、地上整備士が予めプロペラを何回となく回した後でないと始動しないのに比べ、キの67は電動始動機(スターターモーター)によって直ぐに始動します。プロペラのピッチ角度調節は今までのは油圧式でしたが、キの67は電動式でした。

見習整備士として搭乗していた頃、急降下、急上昇、そして片っ方のエンジンを止め、プロペラのピッチを90度にしての片発飛行が出来るのには本当に驚きました。

キの67には自動操縦装置も付いていて、遠距離飛行ではそれに頼って、操縦士は方眠りが出来るそうです。

岐阜陸軍航空整備学校の生活に比べ、茨城の戦隊での半年、「筑波おろし」の寒さは一寸辛かったけれど、兎に角ご機嫌でした。 何しろ机上勤務と地上勤務とでは食べ物が違う。 机上勤務は白米のご飯に生卵が付き、それに航空糧食も有り、当時滅多に食べられ無い羊羹やキャラメル等が配られました。 それに戦地帰りの兵士は士気が弛んでいて厳格な訓練も有りませんでした。

昭和二十年六月には、飛行機は沖縄まで飛べる燃料タンクだけを残し、その他のタンクは全て取外され、米軍のレーダーにキャッチされないよう低空水面飛行の為、水上面上1メートルまで測定出来る「イの13」と言う電波探知器が取付けられ、搭乗員は操縦士と機上機関士の二人だけ。 私もその機上機関士に編成され、九州の太刀洗前線基地に移動を命じられましたが、出発前夜急に他人に変更されました。 後で知ったのですが、何でも太刀洗基地で朝鮮出身の兵士が飛行機に火を着けて燃やしたそうで、その為殖民地出身の者は全て重要勤務から外されました。

戦隊では色々な事が有りました。 沿海に敵潜水艦攻撃任務で巡航から帰って来た飛行機に負傷者が出ました。 何でも年長の者がもう帰ろうと言ったら、若者は敵艦が見つかるまでもっと巡航しようと言い争って、遂に拳銃をぶっ放したそうです。

太刀洗基地に前進する飛行士が夜、庭で落ち葉を拾い、それを上に投げ上げ、その落ち葉が舞い落ちるのを見て、にこっと笑い、兵舎に帰って毛布を頭まで被って寝た有り様も見ました。

離着陸の訓練中に操縦ミスで二機程が横滑りをして墜落するとか、太刀洗基地に前進する飛行機が離陸に失敗し、機が燃え、10数人が焼死、その死体を運んだ事も有りました。 焼死者の中に同じ台北中学の一期下で、同じく郭で郭壬水という旗山出身の者が居ました。 終戦後遺骨を台湾へ持って帰ってやれと言われましたが、私は当分台湾には帰らないので持って帰って上げられませんでした。 その後遺骨は無事家に届けられただろうかと思うと、今でも心苦しくてなりません。

太刀洗基地に前進する飛行機が、瀬戸内海の上空で航海中の船に向かって無法にも機関銃で掃射をしたと言う噂も聞きました。

整備士が脚の油圧系統のホースを二本同時に取り外して交換したため、取り付けを誤って、飛行中に脚が片っ方が上げ、片っ方が下げで、余儀なく胴体着陸をした事も有りました。

地上勤務者は私たちが毎日何回も飛行機に乗れるのを羨ましがり、彼らも乗りたがって、休憩時間中、機上の後部に有る、飛行機を被せるテントに4人程がもぐり込み、其の為後部が重たいのでなかなか離陸出来ず、指導機関士が緊急にプロペラのピッチを変えてエンジンの回転数を上げ、やっとのことで離陸、本当に危ぶき一瞬でした。 着陸後彼らは日頃穏便だった機上機関士にものすごくぶん殴られました。

戦局も不利になり、五月の初旬に入ってからは空襲が続きました。グラマンの地上掃射です。直ぐに付近に有った、土を1メートルほど掘り下げた穴に飛び込みました。射撃手は空に有る目標も見ず、頭を隠し無闇に発砲していました。初めての遭遇なので、本当に怖かったです。

毎日のように地上掃射が有り、爆撃機が数機燃やされましたが人員は皆無事、キの67も一機掃射にあい、機体に穴があきましたので、その上に布を張り、塗料を塗って修理しました。

戦隊の兵舎は空襲に備え、地下を掘り下げて作られた三角兵舎で、湿気が重く、衛生状態も悪い。其の為七月には中隊でA型パラチブスが発生し、中隊全員は郊外に隔離され、毎日何もする事無く、夜は毎晩の様に、遠く東京の空が空襲で赤く燃え上がっているのが見えました。

終戦は隔離兵舎から本隊へ食糧運搬の帰りに天皇陛下の玉音放送を聞いて知りました。

戦争が終わって二日後には上空をB29がキラキラと光って飛んでいくのが見ました。もう退避しなくてもいいんだと思うとうれしかったです。

部隊長は全員を集め、「戦後は共産主義を主張する者が出てくるだろう、国を滅ぼす災いの元になるから皆くれぐれも注意をして惑わされないように」との訓示が有りました。

それからは毎日のように部隊内の処理です。飛行機は其のままにして動かすな、所持品は衣服を除き、其の他は全部処分してしまえ、といふ分けで、私は学校時代にもらった講道館柔道初段の免許、姪が苦労して作ってくれた千人針の鉢巻までも全部燃やして仕舞いました。

戦友は郷から持って来た祖先伝代の日本刀を持って付近の竹林に入れ、さんざん竹を切りまくった後、その日本刀を池に投げ捨てました。

私は勤務を命じられ、トラックに満載の拳銃を、遠く離れた橋の上から川に投げ込みました。

その後、台湾、朝鮮に帰る者は結城町の小学校に集められ、船の便を待っていましたが、兄が東支那海に米軍が敷設した水雷が未だ完全に除去されていない、危険だから当分大阪へ来いと言うので、復員用乗車券と米2升を貰い、下館から大阪へと一日半の旅。 到着後阪急梅田駅で服部行きの切符を買っていたら、傍に置いていた大事なお米をかっぱわられて仕舞った。

残念至極だと三日程悔しみました。

そして私は終戦翌年の五月に台湾へ帰って来ました。  

         台湾 屏東 (かく) (とく) (はつ)
 2000/01/20

 

    六十二戦隊にいた頃、夕食後余興の際によくこういう歌が歌われました。

 妙薬の歌 (田螺殿)

タニシ殿  タニシ殿   愛宕参りに  ござらぬか    嫌で候  嫌で候  
丁度  去年の夏の頃   おドジョウ殿に誘われて  チョロチョロ小川を渡る時  
キジや  トンビや  フクロめが  アチャコチャつつき  コチャつつき
その傷が その傷が   季節めぐりて冬来れば   ズンギラ モンギラ ズンギラ モンギラ 痛み出す
何か妙薬ござらぬか  薬はいろいろある中で  まず第一の妙薬は  夏降る雪の黒焼けと
山の上なる蛤と  海の底なる松茸と  蚤の金玉  虱のはらわた  合わせ  一度に用うれば
効能  たちまち現   効能  たちまち現

 

大木 六郎さんから頂いた懐かしい筑波山の全貌  大木さん有難う!

 

今日大木さんから筑波梅林公園で撮った白梅の写真が伝送されました。

(2003/01/24)

 

岐阜陸軍航空整備学校から台湾の甥と姪に送った葉書 (昭和20年)

 

 

台灣が日本の植民地時代であった頃の戸籍謄本 (女の人は姓と名の間にの字を入れることになっていた)

 

                  I T 爺ちゃん・ 婆ちゃん の 当選証書    1998年10月30日

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